【連載】仲間と家族と。
2021.07.06
ペンネーム:熱帯夜
小学校、担任のA先生
どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。
人生も56年間も生きてくると、多くの方々との出会いがあり、別れがあった。かつて書いた高校時代の恩師K先生も私に大きな影響を与えてくださった。同じように私の人生の転換期に担任をしてくださっていたA先生も忘れられない恩師である。
A先生は、小学校1年生から3年生までの3年間の担任であった。彼と過ごす3年間に私は父と死別した。ただ、父の倒れた日、亡くなった日の記憶は鮮明にあるのだが、父が亡くなった後のA先生との記憶がとても薄いのである。恐らく大きなショックを受けていて、茫然自失の中、時が過ぎていったのではないかと思う。
A先生との出会いは小学校入学に遡る。入学初日の彼の印象は、厳格で、おっかない、というものだった。それまでの私も、厳格な母の庇護下で厳しく育てられていたと思うのだが、それでもA先生は格別に厳しかったと思う。
毎日宿題は出るし、毎朝小テストがあった。隔日ごとに漢字と算数計算のテストが行われた。それで不合格点を取ると、放課後に居残りで特訓が行われていたのである。幸か不幸か、私は一度も居残りにはならなかったが、連日同じような顔ぶれが居残りになっていた。
母も当然小テストが行われていることは知っていたので、必ず満点を取れと叱咤されていた。区立という公立の小学校では当時でもかなり珍しかったようである。しかもA先生のクラスだけであったので、幼心ながらに「外れのクラス」に入ってしまったと嘆いたものである。
A先生は勉強だけでなく、体育にも厳しかった。特にドッジボールに対してはとても情熱的だった。
学年ごとにクラス対抗のドッジボール大会があったのだが、そこで勝つためにA先生は特訓を行った。投げるのが得意な子、受けるのが得意な子、逃げるのが得意な子に分けて、それぞれに別メニューで放課後に特訓をした。特に全てがオールラウンドにできる子は、連日放課後に特訓だった。
私は比較的運動神経が良かったので、連日特訓組だった。特にボールを受ける特訓は熾烈(しれつ)を極めた。小学1年生が、A先生の全力で投げたボールを受けるのである。今となっては記憶もゆがめられているかもしれないが、唸りを上げたボールとは、あのときのA先生が投げていたボールをいうのではないかというほど速くて強いボールをキャッチした。
手は腫れて、取り方を間違うと突き指をした。投げる特訓も、相手の膝から下を思いっ切り狙う訓練だった。その時投げうる一番のスピードボールを相手の膝下にコントロールする。毎日毎日、ひたすら投げて、ひたすらキャッチした。
結果は言うまでもなく、私たちのクラスは大会で圧勝した。私たち生徒からすると、連日の訓練のときに受けていたA先生の投げたボールに比べて、同級生の投げたボールの何と緩やかなことか。そして何よりも、逃げ惑う相手クラスの子たちに、容赦なく膝から下に強烈なボールを投げ込むことで、面白いように相手に当てることができた。大会後も我がクラスは堂々と学校で過ごせた。時に上級生に試合を申し込まれたりもしたが、低学年では負け知らずだった。
今思うと、私はA先生から、目標に向かって日々努力をする、ということを学んだ気がする。小学生の息子と3年間休まずに朝練をしたことも、もしかすると原点はA先生の教えが影響したのかもしれない。努力は必ずしも報われるとは限らないが、幼稚園から小学校に入学することで人生のステージが上がり、いよいよ勉学の場になるときに、あえて厳しく教育してくださったA先生。すでに鬼籍に入られて久しい。私が息子に接する姿をもしご覧になられたら、何とおっしゃったか。
小テストや、ドッジボールの特訓については、当時ですら一部の父母から批判やクレームがあったと卒業してから知った。見返りも求めず、生徒のために放課後も時間を使い、こんなありがたいことはないと、私の母は言っていたが、現在であれば、認められないことなのかもしれない。
先生の教えは私の中で今でも残っている。人よりも努力すること、自分のレベルよりも高いレベルの訓練や練習をすること、そして何よりも目標に到達するために通過する苦労を乗り越えること。今でも大切にしている。
私の話や母の話を聞いて、A先生は私の父と会いたがっていたらしい。残念ながら多忙な父とは一度も会えないままだった。もし父と会っていただいて、お酒でも酌み交わすことができていたら、きっと意気投合していたのではないだろうか。父亡き後の小学校4年生から6年生までは別の担任になってしまったが、そのときにこそA先生が担任であったならば、私の成長も少し変わっていたかもしれない。小学校高学年から少し私は荒れてしまったから。
A先生が亡くなられるまで、毎年年賀状のやり取りはさせていただいていた。いつでも会えると私は思っていたのだが、突然翌年にA先生の奥さまから訃報が届いた。本当に後悔をした。だからこそ、私の中に残っているA先生からのメッセージを忘れることなく、生きていこうと思う。きっと天国でA先生は父と酒を酌み交わしながら、私の生き方を見張っておられるだろうから。
※記事の情報は2021年7月6日時点のものです。
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【PROFILE】
ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)
1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。
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