【連載】仲間と家族と。

ペンネーム:熱帯夜

辛くも充実した1年

どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。

 1984年3月20日、私が浪人生活に入ることが決まった日である。


 この日に私が希望する国立大学の合格発表があった。朝から冷たい雨が降っている日だった。正午にこの大学のキャンパス内で発表が始まるのだが、私は知り合いに会いたくなかったので、少し遅い時刻に家を出た。15時ぐらいに現地に着き、合格掲示板に自分の番号と名前がないことを確認した。


 高校2年生の3月までバンド活動に明け暮れ、反抗期の葛藤にもがきながらも、何とか周囲の支えもあり、少しずつ立ち直り、懸命に受験に臨んだが、そんな生半可な自分の覚悟は通用しないと厳しく一刀両断されたように感じた。


 ある程度この結果を覚悟していたものの、やはり現実を突きつけられるとショックは大きく、合格発表場所からどのようにして帰宅したのか、記憶が曖昧である。ただただ寒くて、冷たい雨の中、人生で初めて同級生から遅れてしまうということが、自分の中で大きな闇として覆い被さってきたのだけは鮮明に覚えている。夜に風呂に入っているとき、突然両目から涙が溢れ、自分でも驚くほどに嗚咽(おえつ)が続いた。こんなに泣いたのは父を亡くした時以来か、いやその時よりも泣いたかもしれない。


 翌日からS予備校に通う準備が始まり、浪人生活が始まった。しばらくして冷静に周囲の状況が分かってくると、自分と同じ境遇の仲間が意外にも多いことに気付く。高校で常にトップ10に入っていた秀才も不覚を取っていたり、私と同じように付け焼き刃で受験してダメだった者もいる。それぞれ千差万別だったが、全員が浪人生になったという境遇は同じだった。


 S予備校は私が志望する国立大学対策コースがあり、そこに1年間通うことになった。そこで感じたことは、こんなに優秀なのに浪人しているのか、という仲間が全国から大勢集まっている現実であった。4月から始まった予備校の授業で、私には全く分からない問題をスラスラと解いていく仲間がたくさんいるのである。これは私が合格できるわけがない、いや合格しようなんて考えていた私は何と独善的で、身の程知らずだったのかと思い知らされた。


 対策コースは成績順で4クラスに分かれていた。1クラス300名なので、このコースは1200名が通っていたことになる。4月から7月まで授業が続き、その間に定期テストや対外模試があり、私は常に対策コースの中で290番から299番をうろうろしている状態だった。何とか一番上のクラスに入っているのだが、まさにギリギリであった。


 朝8時30分から12時30分まで毎日授業、帰宅後14時30分から18時、19時から23時が自宅学習という日々。休日は午前8時から12時、13時から18時、19時から23時が自宅学習だった。それでも間に合わない、実力が上がらない、その葛藤の日々で、努力を続けることでしか、自分の状況を変える術はなく、その努力さえ必ずしも結果を保証してくれるわけではない。


 18年間の人生で、こんなにも不確かな状況でも努力を続けること、結果が全てで過程は最終的には意味を持たないという日々は本当に苦しく、辛い時間であった。ただただ自分は目指す大学に入って、姉の命を救えなかった経験から薬学を学びたい、そのためにはこの大学に進みたい、その一念だけで自身を鼓舞していた。毎日が不安で、逃げ出したい衝動に駆られながらも、いつの間にか勉強をしている時間だけが安心できる時間になるという不思議な感覚にとらわれていった。


 この年の夏にロサンゼルスオリンピックが行われた。カール・ルイス選手が陸上で4冠を達成し、山下泰裕選手が柔道で金メダルを獲得した。そのオリンピックもテレビで観られるのは食事の時間だけで、暑い夏の日も毎日机に向かっていた。先に大学生になった友人が、海だサーフィンだ、キャンプだと遊んでいるのは羨ましかったが、テレビを観ている時間にも不安に襲われ、食事が終わればすぐに部屋に入っていた。机に向かっている時間だけが安心できる時間だったからである。


 やがて秋になり、冬に入るといよいよ受験シーズン開幕。1月14日、15日に共通一次試験(当時)、そして運命の二次試験が1985年3月4日、5日に行われた。試験を終えて完全に燃え尽きた。結果がどうあれ、2浪はできないと悟った。実を言うと完全に燃え尽きた感じになってしまったのは2月末だった。おそらく自分の学力のピークは2月末だったのであろう。本番の二次試験の時にはすでに下降線を描いている感じがしていた。これ以上やっても駄目になっていくだけだったのだと思う。結果として、幸運にも3月20日に合格することができたのではあるが、自分の中では限界に達していた。


 1年前の3月20日は雨だったが、1985年3月20日は快晴だった。予備校の仲間10人も全て希望の大学に合格した。10人の中でみんなの心配の種だった私が何とか滑り込み、全員合格がかなったのである。


 ここで私が書きたかったのは、どこの大学に入るとか、受験の心構えとかではない。私が浪人生活という苦しく、辛い1年間を経験して、何を得られたのか。自分の人生は全て自分の責任であるということ。浪人生活に入ったのも自分が行ってきた結果である。それを受け入れ、そこから出て何を目指していくのか、それを決めるのも自分である。さらにその目標に向かうために考え、そして努力をするのも自分だということである。


 自分の境遇を受け入れ、そこから目標に向かって進む。このことを10代最後の1年間で経験できたことが私の人生にとって、とても大きなことだったと思う。努力が報われないことの辛さ、虚しさ。そしてそこから鼓舞して継続していく精神力。息子にも常に伝えてきたことである。人のせい、世の中のせいにしても、一時は収まるかもしれないが、本質的には変わらない。最後は自分が自分自身に働きかけて進むしかないのである。


 これからも私は進んでいく。そして浪人時代に自分を鼓舞した言葉を常に忘れずに進んでいく。「お前はその程度なのか?」「お前の覚悟はその程度なのか?」「負けてたまるか!」。


※記事の情報は2021年11月9日時点のものです。

  • プロフィール画像 ペンネーム:熱帯夜

    【PROFILE】

    ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)

    1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。

RELATED ARTICLESこの記事の関連記事

小学校、担任のA先生
小学校、担任のA先生 ペンネーム:熱帯夜
T君が教えてくれたこと
T君が教えてくれたこと ペンネーム:熱帯夜
ターニングポイントの出会い
ターニングポイントの出会い ペンネーム:熱帯夜
天才と不良
天才と不良 ペンネーム:熱帯夜
「らしくない」生き方
「らしくない」生き方 ペンネーム:熱帯夜

人物名から記事を探す

公開日順に記事を読む

ページトップ