最後の夏、最後のバッター

【連載】仲間と家族と。

ペンネーム:熱帯夜

最後の夏、最後のバッター

どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。

 2019年7月21日は曇天で、湿度の高い日だった。

 最後のバッターに、相手高校のエースが、その日最速の151kmのストレートを投げ込む。渾身の一球が唸りを上げる。あっという間にキャッチャーミットに吸い込まれ、バッターのフルスイングは空を切った。ゲームセット。

 これが、長い歴史を刻んできたその地方球場の最後の試合だった。付近は今再開発工事が進み、球場はこのあと取り壊され新たな競技場が建つことになっている。

 歴史ある球場の最後のバッターが私の息子だった。同時に、息子の10年間にわたる野球の終焉でもあった。夏の地方大会ベスト8をかけて闘い、散った。

 小学3年から始めた野球。ずっとピッチャーにこだわり、エースナンバー「1」を目標に進んできた。最後の大会の背番号は「20」。最後までエースナンバーには届かなかった。

 そんな息子が、最後の試合で3点ビハインドの9回ツーアウトランナー二塁の場面で代打に。確かにバッティングが良い方だったが、かなり厳しい場面だったと思う。三回バットを振って、三振。当たらなかった。

 ただそれは私が小学生時代から彼に厳しく言ってきたことだった。見逃して三振するぐらいなら空振りで三振しろと。一見すると正しそうに思える、私の考え方は野球のプロに言わせると、全く正しくないらしい。振らないで三振した方が良い場面があると言うのだ。私には全く分からないが。

 息子は最後の最後まで、フルスイングで向かっていった。そして負けた。私はその姿を目に焼き付けて、息子と二人で歩んできた野球が終わったと悟った。

 思えば、高校野球は試練の連続だった。中学までの軟式野球から硬式野球への対応が難しかったのだろう。そこに天性の不器用さを発揮してしまい、時間もかかった。

 加えて、1年生の夏にはバッティングピッチャーをしていて打球を頭に当てたり、肩を痛めたり。
1年生の秋大会にはベンチ入りが期待されていたのに怪我で棒に振ったのである。

 2年生の春大会予選にはメンバーに選ばれたものの、突然のノーコン病を発生し、本大会メンバーから外れた。練習ではできることが、試合になるとできなくなり、全くの別人になってしまうのである。いわゆる「イップス」である。秋大会でも投手としては戦力外。バッティングの良さを評価されて、ファーストでレギュラー入り。公式戦で打点も稼ぎ、ヒットも打った。

 息子はそれでも投手にこだわり、再起をかけて、2年生の厳しい冬トレーニングに明け暮れた。
また、試合での乱調を克服するためにフィジカルのトレーニングに加えて、メンタルトレーニングにも通った。なりふり構わない、彼の必死な姿がそこにあった。

 晴れて3年生春大会では背番号「11」で投手としてベンチ入りした。そして春大会予選一回戦で一回をパーフェクトに抑えた。完璧なリリーフ。

 これでやっと夏大会に向けて、一気に調子を上げていけると親子で喜んだのもつかの間。練習試合中に、ストレートスピードがいつもより遅い息子は指導者から怒りを買い、降板させられる。そして試合終了までブルペンでの全力投球を課せられた。その日の朝には腰が痛かったらしいが、言えばメンバーから外されると思い言い出せず、ついにブルペンで腰椎分離症を発症し、激痛で動けなくなり、1ヵ月半の離脱。投げるどころか、運動禁止。

 またしても息子に大きな試練が訪れてしまった。最後の夏大会のベンチ入りも怪しくなった。ただ、息子は諦めず、動かせるところだけのトレーニングを必死に行い、常にボールを離さず、少し回復してからは賢明なリハビリをやっていた。時折部屋では悔し泣きをしながら。私は知っている。

 痛み止めと、トレーナーのケアで何とか短いイニングは投げられるようになり、ギリギリでベンチ入りが決まった。ところが、息子のベンチ入りにチーム内から、父母の一部からも批判の声が上がった。この時期には避けて通れないことなのだが、3年生最後の夏大会は多くのドラマを生む。ベンチに入れない仲間もいるのである。みんないろいろな思いを抱えているからこそのドラマが。

 悩む息子に私は諭した。監督をはじめとする指導者が選んだメンバーなのだから、お前が批判されることは筋違いであること、ましてや父母なんかは論外であると。

 ただ、ベンチに入れなかった仲間の想いや悔しさを背負っていく覚悟は必要だと伝えた。堂々と、そして誇りをもって野球と向き合って来いと送り出した。

 最後の夏大会、三回戦でリリーフとして1イニングを任された。そして見事に抑えた。腰がいつ壊れてしまうか分からない恐怖と闘いながら、全力投球で任務を全うしたのである。そして最後は代打で登場し、これまた全力スイングで三振し、幕を下ろしたのである。

 10年間の野球人生で彼が学んだことは何なのか? 特に思うようにいかない高校野球の3年間で彼が得たものは何なのか?

「厳しい部活を耐えたのだから、今後の人生もきっと耐えられる」

こんなことを言う人がいるが、私は人生そんなに甘くないと思っている。運動は確かに厳しいと思う、でも運動以外にも厳しいことや辛いことはヤマほどある。

私は、常に人生は進まなくてはならないのだから、その瞬間ごとに次に進めるような生き方ができているかが大切だと思う。息子が野球を通して知ったこと、経験したことを、自分の中の財産として大切に残しつつも、次の人生をきちんと見据えて進めることが一番大切だと。

 だからこそ、今という時間、一瞬一瞬を大切にして、少しの悔いも残さないように懸命に生きてほしいのである。

 2019年7月21日は、息子の野球の終焉の時であったが、同時に次への夢へのスタートとなる日でもあった。

 試合を終えて帰宅した彼は、私に向かって深々とお辞儀をして、「今まで本当にありがとうございました」と言った。私が差し出した右手を握ってきた息子の手には今まで感じたことのない力強い力がこもっていた。その日の夕食で彼はとても晴れやかな顔をしていた。その久しく見たことがなかった息子の柔らかな表情を見て、野球をやりきったんだなと私は思った。

 翌日から彼は受験に向けて一日12時間の勉強を開始した。

「野球より疲れるよ」なんてことも言っている。

 私も何となく、息子が苦しむ姿を一緒に抱えることから解放されて、少し十字架が降ろせた気がした。親子でやりきったんだな、きっと。

 息子は無邪気な表情を浮かべて、「食事が楽しいなあ」と言う。思えばトレーニングで一日7食も食べさせられ、米は一日八合。そんなことはこの先もうないだろう。辛かったよな、食事トレーニングは。

 息子よ、よくやった。いつの日か独立して旅立っていったとしても、私の精神はいつでも側にいる。お前の生き様、これからも見せてくれ。


※記事の情報は2019年10月1日時点のものです。

  • プロフィール画像 ペンネーム:熱帯夜

    【PROFILE】

    ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)

    1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。

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