【連載】仲間と家族と。

ペンネーム:熱帯夜

大学の研究室

どんな出会いと別れが、自分という人間を形成していったのか。昭和から平成へ、そして次代へ、市井の企業人として生きる男が、等身大の思いを綴ります。

 大学は、入学前に1年間浪人し6年制の学部を専攻した。卒業したのは、1991年3月。早いものでかれこれ33年の月日が流れた。

 1年生と2年生は教養課程という制度があり、一応理科系の専攻になるということで入学をするものの、2年間は経済学、法学、語学、心理学など理系科目ではない科目も単位を取得しなくてはならなかった。

 私は化学、薬学を専攻したかったのであるが、正直大学に入学した後も本来学びたい学問以外も学ばされることに不満があった。とはいえ単位を取得しなければ3年生以降の専門課程に進めない制度だったので、かなり後ろ向きに過ごしていた。2年間の教養課程の成績で3年生以降の専門課程を決めていく制度となっており、人気のある学部は2年間の成績が優秀でないと進めなかった。

 当時、私の望んだ薬学部は人気が高く、私は見事に選考に漏れた。嫌々通って、後ろ向きに臨んでいたら、結果は必然ではある。

 留年は認めないという親の方針もあり、私自身も浪人して1年遅れているのだから、自分の希望に固執するのではなく、ある程度近い学問ができるのであれば良しとしようと、ある学部のある学科に進むことにした。ここには研究科がいくつかあり、その中に薬理学を専攻する研究科があったため、薬学に未練がある私は、そこに希望を抱き決断した。ただし、3年生からさらに1年間はその学部学科の基本的なことを学ばねばならず、自分の専攻したい薬理学に没頭するにはさらに1年間待たねばならなかった。

 晴れて大学4年生の春から薬理学教室に籍を置き、基礎研究に没頭するようになる。最初は多くの論文を学び、指導教官の研究を手伝うことから始まった。仮説の整理、検証のための実験計画立案、実験準備、そして実験。実験も数時間に及ぶものもあり、朝から準備して終了が夕方、その後実験器具の消毒、整理、最後に実験データの整理がある。最初の半年は指導教官の指示に従い、ひたすら学び、吸収する日々。そんな日々から自分なりの疑問や仮説が生まれてくる。

 指導教官は当時28歳くらい、私と年齢が近かったこともあり、私の考えや仮説にも耳を傾けてくれた。ある時からこの実験は任せると言われ、一人で進めることも増えた。自分で進めるには、自分の仮説がなければ実験は成立しない。それは未熟な私にはとてつもなく大きなプレッシャーとなった。しかも実験の成功(仮説が証明される実験)は10回に1回あれば良いぐらいの確率。10回に9回は挫折と絶望を味わう。

 貴重な実験素材や試薬を無駄にしてしまう罪悪感との闘い。あまりにも失敗が続くと仮説にも自信がなくなり、新たな仮説を考える気力も失われていく。同じような研究を日本国内に限らず世界で進めている。一刻も早く実証して論文化して提出しなければならない。一瞬でも受理(アクセプト)が遅れれば負けの世界。未熟な学生には本当にきつい経験だった。

 ただ今思い返すと、自分の意志で選択した専攻の日々はとても充実していた。まだまだ研究者を名乗るには未熟だったが、これをやれば必ず正しいのだという勉強とは異なり、これを実行しても結果は分からない中で進んでいくこと、これは今となっては人生そのものだと思う。

 実際に私は5年生の9月ぐらいまでは仮説がうまくいかず、何度もテーマ変更を余儀なくされて、このままでは卒業論文も完成しないのではないかという状態だった。教授や助教授のテーマを手伝って、「一部やりました」ということでも卒業はできたから、そうしようかと自暴自棄にもなりかけたが、指導教官が根気よく付き合ってくれて、何とか5年生の秋から取り組んだテーマが大きな可能性を含むものとなり、最終的には日本薬理学会で発表できる論文にまでなった。それは私の卒業論文となり無事に卒業できた。

 私はそのまま大学に残りたかったが、いろいろな運命が重なり、卒業後は全く異なる分野で社会人生活を送ることになるが、そのことはここでは触れないでおく。卒業生の進路が記載されている研究室の資料の中で私の進路はかなり異色である。

 この時の経験は何に生きているのか。社会人になるまでの人生の中で、数々の失敗や不器用な生き方で思いがけない方向に進んできた。その中でも高校生の時に考えた専門に大学では関わることができ、貴重な3年間の専門課程を過ごした。

 仮説が証明された数少ない経験から得られる充実感と自信。未知の仮説を立てて、それを実証していくための構想力、想像力、企画力。そして何よりも根拠のない仮説を信じる精神力。月並みではあるが今の仕事にもすべてありうること、必要な力だと思う。それをこの3年間で身につけられたかというとそんな綺麗ごとではない。でも確かに経験したという事実は私の中で脈々と生きている気がする。

 私も年齢を経てきて少し過去に浸り過ぎているのかもしれない。あきらかに人生の後半に入り、新たに実現できることには限りが見えてきている。でももう少しあがいてみたいと思う。若いころに考えつかなかった着想ができるかもしれない。今だからできることがあるかもしれない。

 指導教官は今その研究室の教授になっている。彼もまだまだ戦っている。私はその教え子として精一杯生きていく義務がある。自称第一の弟子だから。久しぶりに連絡でもしてみるかな。

※記事の情報は2024年6月11日時点のものです。

  • プロフィール画像 ペンネーム:熱帯夜

    【PROFILE】

    ペンネーム:熱帯夜(ねったいや)

    1960年代東京生まれ。公立小学校を卒業後、私立の中高一貫校へ進学、国立大学卒。1991年に企業に就職、一貫して広報・宣伝領域を担当し、現在に至る。

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