隅田川は橋の展覧会! 復興橋梁めぐりパート2〈後編〉

【連載】ドボたんが行く!

三上美絵

隅田川は橋の展覧会! 復興橋梁めぐりパート2〈後編〉

遊びは創造の源泉。身近にあるコトやモノ、どんなことにも遊びを見出してしまう。そこに本当のクリエイティビティがあります。このドボク探検倶楽部、略して「ドボたん」はさまざまな土木構造物を愛でるコーナー。土木大好きライター、ドボたん三上は関東大震災にまつわる建造物をめぐるツーリズムで何を見つけたのでしょうか!

前編はこちら


今回のツアーで巡った隅田川周辺のスポット今回のツアーで巡った隅田川周辺のスポット
出典:国土地理院ウェブサイト「地理院地図」に加工(番号表記)して作成




浅草寺発祥の地、駒形堂に立ち寄る

駒形橋のたもとに、駒形堂という祠があります(⑥)。ここは、知る人ぞ知る「浅草・浅草寺発祥の地」。浅草寺のウェブサイトにも駒形堂の項目があり、「推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという」と書かれています。

また、浅草寺の歴史のページには、その時の様子が描かれています。隅田川のほとりに住んでいた檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成(たけなり)の兄弟が漁をしていると、投網に仏像がかかりました。土地の長である土師中知(はじ・なかとも)に見せたところ、聖観世音菩薩の尊像であると分かり、里の童子たちが草でつくったお堂にお祀(まつ)りしたといいます。

この草庵の場所に、300年ほど後の942(天慶5)年、平公雅(たいらの・きんまさ)によって建立されたのが駒形堂です。隅田川にまだ橋がなかった頃は、この水辺に舟着き場があり、上陸した参拝者は、まず駒形堂にお参りしてから本堂へ向かったそうです。

今回のツアーを主催する「Team Action 道ism(ミチズム)」代表で、古街道研究家でもある宮田太郎さんは、「浅草寺の本堂も元はここ(駒形堂)の近くにあったのではないかと僕は見ています。現在の本堂のあたりには平公雅の館があり、仲見世から並木通りの参道を今と逆の方向へ歩いて参拝していたのではないか」と推理。「駒形」は「高麗方(こまがた)」に通じるとして、渡来人である高麗人との関わりなど自説を話されました。復興橋梁だけでなく、意外な歴史ロマンの話題に、参加者さんたちも興味津々です。


浅草寺の本尊である聖観世音菩薩が最初に祀られた地といわれる駒形堂。1721(享保5)年まで、堂宇の正面は隅田川の方を向いていた(撮影:三上美絵。以下、特記以外は三上美絵)浅草寺の本尊である聖観世音菩薩が最初に祀られた地といわれる駒形堂。1721(享保5)年まで、堂宇の正面は隅田川の方を向いていた(撮影:三上美絵。以下、特記以外は三上美絵)


浅草寺の参道には、縁起絵巻「寛文縁起」から抜粋した絵が展示されている。左は檜前兄弟の投網の中にご本尊を発見した様子、右は平安中期に平公雅が駒形堂などの堂塔伽藍を建立した様子が描かれている(撮影:宮田太郎)浅草寺の参道には、縁起絵巻「寛文縁起」から抜粋した絵が展示されている。左は檜前兄弟の投網の中にご本尊を発見した様子、右は平安中期に平公雅が駒形堂などの堂塔伽藍を建立した様子が描かれている(撮影:宮田太郎)




隅田川の下をくぐる地下鉄を感じて

隅田川テラスに戻り、川べりを北上します。対岸には、泡の載ったビアジョッキをイメージした金色のアサヒグループ本社ビルが見えています。手前の赤い吾妻橋(あづまばし)(⑧)がよく映えて、浅草に来た! と感じさせる風景です。

吾妻橋は、前編で紹介した厩橋(うまやばし)(④)と同様、当時の東京市による震災復興橋梁です。現在は赤色に塗装されていますが、当初は灰色系の塗色だったといいます。

関東大震災の時は旧鉄橋の改築工事中で、上流側に車用、その下流側に軌道用の仮橋が架けられていました。震災による火災で仮橋と本橋の木の床が焼失しましたが、新たに復興橋梁が完成するまでは、木造で応急復旧がなされました。


吾妻橋の先、左端に見えるのが、アサヒグループ本社ビル。ビルの右側のオブジェの名称は「フラムドール(仏語:金の炎)」(撮影:宮田太郎)吾妻橋の先、左端に見えるのが、アサヒグループ本社ビル。ビルの右側のオブジェの名称は「フラムドール(仏語:金の炎)」(撮影:宮田太郎)



そして、その近くにあるのが、私が参加者さんたちにぜひご紹介したかったドボク的見どころ、都営浅草線のトンネル湧水の噴水(⑦)です。地下鉄の構内には地下水が浸出することがよくありますが、その水を地上に引き上げて、修景施設として利用しているのです。

ということは、ちょうどこの場所で、都営浅草線が隅田川の下をくぐっているということ! 堤防の擁壁には、「都営地下鉄構築物河底横過標識」と記された銅板があり、真下を地下鉄トンネルが通っていることが分かります。

ただ、残念なことに当日は噴水の水は出ていませんでした。じつは、私はツアーの下見を含め3回以上ここを訪れているものの、一度も水が噴き上がっているのを見たことがありません。現地の案内板には「湧水の放水量は、季節により異なるが月平均2万m3程度で、放水状況は『間欠排水(一定の期間をおいて排水したり、止まったりする状況のこと)』」とあり、常に噴水が出ているわけではないようです。噴水を見られた方はラッキーなのかもしれません。


都営浅草線のトンネル湧水の噴水。水が出ていないのは残念だが、足の下を地下鉄が走っていることを想像すると楽しい。この写真は下見で訪れた時のもの(撮影:宮田太郎)都営浅草線のトンネル湧水の噴水。水が出ていないのは残念だが、足の下を地下鉄が走っていることを想像すると楽しい。この写真は下見で訪れた時のもの(撮影:宮田太郎)


この場所で都営浅草線が隅田川の地下を渡っていることを示す銅板。「構築物の中心位置」と書かれた矢印がリアルこの場所で都営浅草線が隅田川の地下を渡っていることを示す銅板。「構築物の中心位置」と書かれた矢印がリアル




"鏡ツリー"を観て、東武スカイツリーラインの真横を歩く!

吾妻橋の橋台をくり抜いたトンネルをくぐると、白っぽいトラスの鉄橋が見えてきます。東武スカイツリーラインの隅田川橋梁です。1931(昭和6)年に竣工したこの古い鉄道橋の脇に歩道橋が添架され、2020(令和2)年に「すみだリバーウォーク」(⑨)としてオープンしました。つまり、電車のすぐ横を歩いて隅田川を渡れるのです。これは、渡らない手はありません。

私がいそいそとすみだリバーウォークへ向かっていると、ツアー参加者さんたちが、なにやらざわざわしています。「ほら、"鏡ツリー"が見えていますよ!」と教えられ、対岸へ視線を向けると、なんと! 先ほどのアサヒグループ本社ビルの側面に、すぐ近くの東京スカイツリーが見事に映っているではありませんか! これを称して"鏡ツリー"と呼ぶのだそうです。


左側の東京スカイツリーが右側のアサヒグループ本社ビルの側面に映っている。これがいわゆる左側の東京スカイツリーが右側のアサヒグループ本社ビルの側面に映っている。これがいわゆる"鏡ツリー"! 中央のビルは墨田区役所



さて、いよいよすみだリバーウォークを渡ります。鉄橋からカンチレバー(片持ち)で張り出すように取り付けられた歩道橋は、路面に木材が貼ってあり、柔らかな雰囲気。歩いていると、電車がすぐ横をゴトンゴトンとゆっくり通り過ぎていきました。


すみだリバーウォーク。列車の横を歩くことができる(撮影:宮田太郎)すみだリバーウォーク。列車の横を歩くことができる(撮影:宮田太郎)



橋を渡った対岸は、墨田区の向島です。江戸時代、ここには水戸徳川家の下屋敷「小梅御殿(こうめごてん)」がありました。関東大震災で御殿が全壊した後、錦糸公園(墨田区)、浜町公園(中央区)とともに、震災復興公園のひとつ、隅田公園となりました。復興公園は、防火帯と避難地を兼ねて設計されているので、どこからでも逃げ込めるように高いフェンスなどは設けられていません。川側の遊歩道からは、「隅田川六大橋」のひとつ、言問橋(ことといばし)も見えています。


隅田公園は隅田川の両岸に広がる。写真は、向島側の徳川邸だった場所(⑩)隅田公園は隅田川の両岸に広がる。写真は、向島側の徳川邸だった場所(⑩)



ここから再びすみだリバーウォークを渡って台東区側へ引き返し、東武鉄道の浅草駅へ。東武スカイツリーラインは、隅田川橋梁の高さを保ったまま急カーブで浅草駅2階のホームへ入ります。駅ができたのは昭和初期の1931年で、鉄道のホームがビルの2階にあるのは、当時とても珍しかったといいます。


隅田川橋梁で川を渡った東武スカイツリーラインは、道路を越え、駅ビル2階のホームへ(撮影:宮田太郎)隅田川橋梁で川を渡った東武スカイツリーラインは、道路を越え、駅ビル2階のホームへ(撮影:宮田太郎)



ここからゴールの浅草寺(⑪)へ。参加者さんの提案で、「浅草地下街」を通り抜けることになりました。この商店街の開業は1955(昭和30)年。日本に現存する地下街の中では最古級だといいます。銀座線浅草駅の改札付近から、新仲見世側までつながっています。

入ってみると、中は低い天井に配管がむき出しになっており、飲食店をはじめとする小さな店舗が軒を連ねています。懐かしいような、それでいて異国の市場のような不思議な雰囲気。行列のできる人気店もあるのだとか。


日本最古級の地下街へ。入口も狭く細い(撮影:松本猛)日本最古級の地下街へ。入口も狭く細い(撮影:松本猛)


中には飲食店などが並ぶ。昭和レトロ感が満載(撮影:宮田太郎)中には飲食店などが並ぶ。昭和レトロ感が満載(撮影:宮田太郎)


階段の横には謎の石が露出していた。改築の時、削り残ったものとのウワサがある。階段の横には謎の石が露出していた。改築の時、削り残ったものとのウワサがある。"現場合わせ"だったのだろうか


新仲見世側の入口から外へ。あれっ、ここに出るの?! 異世界からの帰還、という感覚が味わえる新仲見世側の入口から外へ。あれっ、ここに出るの?! 異世界からの帰還、という感覚が味わえる



新仲見世から仲見世へ出ると、すごい人出です。外国人観光客も多く、ようやくコロナ禍前に戻ったことを実感しました。あまりにも混雑しているので、仲見世は諦め、一筋裏を通って浅草寺へ。中締めをした後は、有志でお参りをしたり、境内を見学したり。

境内の影向堂(ようごうどう、観世音菩薩をサポートする影向衆を祀る堂宇)の池に、小さな石橋が架かっていました。案内板には「石橋(しゃっきょう)」として、「現存する都内最古とされる石橋」と書かれています。1618(元和4)年、浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋としてつくられたのだそうです。橋をめぐるツアーの最後に、由緒ある石橋を見ることができてよかった!


浅草寺の境内で解散。中央が主催者の宮田太郎さん、その左側がワタクシ三上(撮影:松本猛)浅草寺の境内で解散。中央が主催者の宮田太郎さん、その左側がワタクシ三上(撮影:松本猛)


浅草寺の境内にある石橋。現存する都内最古の石橋だという浅草寺の境内にある石橋。現存する都内最古の石橋だという



2023年5月に実施したツアーから今回のツアーを通して、隅田川に架かるたくさんの復興橋梁を見学しました。10万人以上という途方もない犠牲者が出た関東大震災。その復興では、当時の技術者たちが知恵を絞り、持てる力を結集して、より災害に強いインフラの構築に取り組みました。実際に、100年たった今も、復興橋梁群は現役で使われているのです。

この原稿を書いている今は、2024年1月。元日には令和6年能登半島地震が発生し、甚大な被害を及ぼしました。今なお、各地から駆けつけた行政や建設業の方々による懸命の救助や捜索、ライフラインの応急復旧が続いています。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々には心からお見舞い申し上げます。


※記事の情報は2024年2月2日時点のものです。

  • プロフィール画像 三上美絵

    【PROFILE】

    三上美絵(みかみ・みえ)

    土木ライター
    大成建設で社内報を担当した後、フリーライターとして独立。現在は、雑誌や企業などの広報誌、ウェブサイトに執筆。古くて小さくてかわいらしい土木構造物が好き。
    著書に「かわいい土木 見つけ旅」(技術評論社)、「土木技術者になるには」(ぺりかん社)、共著に「土木の広報」(日経BP)。土木学会土木広報戦略会議委員。
    建設業しんこう-Web 連載「かわいい土木」はこちら https://www.shinko-web.jp

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