
【連載】食と土木構造物のおいしい関係
2026.09.25
わさびの門前
水わさび栽培発祥の地・有東木と、400年続くわさびづくり【前編】|食と土木構造物のおいしい関係
「食」と「土木構造物」という言葉を並べると、少し意外に聞こえるかもしれません。しかし、その土地の自然環境という視点で食を見つめると、土木構造物が深く結び付くことがあります。 「食と土木構造物のおいしい関係」連載第2回では、静岡県静岡市北部の有東木(うとうぎ)地区のわさび栽培を紹介します。わさび発祥の地といわれる有東木では、なぜおいしいわさびが育つのか? 有東木でおよそ400年続くわさび農家「わさびの門前」の取材を通して、食と土木構造物のおいしい関係に迫ります。
写真:大谷 次郎
日本における水わさび栽培の発祥の地、有東木
静岡県静岡市葵区有東木(うとうぎ)。静岡駅から車で1時間ほど北上した安倍川の上流、標高700m付近の山間部に位置するこの集落は、切り立った斜面に張り付くような石積みのわさび田と家々が立ち並ぶ景観から「静岡のマチュピチュ」と称される。静岡でわさび栽培というと伊豆が有名だが、周囲を1,500m級の険しい山々に囲まれた有東木こそ、日本における「水わさび栽培」発祥の地だということは意外と知られていない。
そもそも、わさびとはどのような植物なのだろう。わさびは、学名を「Eutrema japonicum(エウトレマ ジャポニカム)」という日本原産のアブラナ科の多年生植物で、古くから日本各地の山間部にある沢や渓流に自生し、独自の進化を遂げてきた固有種だ。
有東木公民館の前に立つ「山葵栽培発祥の地」碑。2018年には「静岡水わさびの伝統栽培」が世界農業遺産に認定され、有東木地区をはじめ、県内の3市4町が栽培地域に選ばれている
わさびは、同じ品種でも育つ環境によって呼び名が変わる。直射日光を避けた湿り気のある土壌や山林の畑で育つものを「畑わさび(陸わさび)」と呼ぶ一方で、清流の冷たい水の中で育つものを「水わさび」という。畑わさびは主に葉や茎、花わさびを収穫して、加工用わさびや漬け物などに使われることが多いが、水わさびで主役となるのは根茎だ。すし店などで用いられる、鮫皮おろしですりおろすわさびといえば理解しやすい。

水わさびは、畑わさびの栽培と比べてよりデリケートな性質を持つ。直射日光に弱いのは双方とも同じだが、畑わさびは木陰や湿り気のある土壌で育つ一方、水わさびはきれいな湧水が常に流れる環境が必要になる。
では、水わさび栽培になぜ流れる水が必要なのか。特に重要なのは、水に含まれる酸素である。わさびの育成には、年間を通じて水温が8〜18℃、理想的には13℃前後で安定していることが良いとされており、水温の安定性が酸素の安定した供給にもつながる。
というのも、水温と溶存酸素量は反比例の関係性にあり、水温が高くなるほど溶存酸素の量は減る。水が滞留せず絶えず流れ続けていることで、水温は上昇せずに安定、さらには流れ込む新しい水からさらなる酸素が常に供給されることになる。
ただ、水が冷たいから良いというわけでもなく、冷たすぎるとわさびはストレスを感じ生育しづらくなる面もある。だからこそ、13℃前後という水温で、常に流れ続ける水がわさびの育成には欠かせないのである。
水温の上昇や酸素不足が続くと、「軟腐病(なんぷびょう)」「株腐れ病」などの病害が広がるリスクが高まる
では、この有東木という地でわさび栽培はどのように始まったのだろう。その歴史は、約400年前の慶長年間(1596~1615年)にまで遡る。当時、有東木の北側に位置する仏谷山(ぶっこくさん、通称わさび山)の標高1,000m付近には、野生のわさびが自生していた。村人たちはこの苗を持ち帰り、村内の「井戸頭(いどがしら)」と呼ばれる、地下水が地表へ湧き出る場所に植えたのが始まりといわれている。
湧水の流れが滞ることなく、上のわさび田から下のわさび田へと水が流れる仕組みになっている
1607(慶長12)年、徳川家康が駿府城へ入城すると、有東木のわさびが献上されるようになる。家康はその鮮烈な風味を「天下の逸品」と称賛し、さらにわさびの葉の形が徳川家の家紋「三つ葉葵」に似ていたことをことのほか喜んだという。このため、有東木のわさびは幕府への献上品として、他地域への持ち出しを禁じる「門外不出」のご法度品となった。
それから約150年後の1740(元文5)年頃、伊豆地域へ水わさびの栽培が伝わることになる。天城湯ヶ島の山守として、有東木へ椎茸栽培の指導に来た板垣勘四郎という人物が、その礼として門外不出だったわさびの苗を譲り受け、伊豆へ持ち帰ったことで、わさび栽培は伝播していった。
ただ、同じ静岡県内でも有東木と伊豆では、わさびの命である「水」の成り立ち方が異なるというから興味深い。伊豆のわさび栽培を支えるのは天城山系という巨大な山塊で、約2,800年前の天城山系の皮子平(かわごだいら)の噴火による軽石や火砕流の堆積層が「天然の巨大な貯水ダム」として日本有数の多雨地域である伊豆地方の雨量を受け止め、豊富で安定した伏流水を生み出している。
有東木と伊豆。同じ水わさびの産地でも、湧水の性質が異なり、わさびへ与える影響も異なるという
対して有東木には、伊豆のような巨大な山系は存在しない。この地がわさびづくりに適しているのは、フォッサマグナ(大地溝帯)の構造運動が生んだ特殊な地下構造があるためだ。有東木の山々は構造運動による隆起の過程で地表部に無数の亀裂を抱えており、それが「じょうご」のように雨水を地下へと速やかに導くという特徴がある。
さらに、この地域の地下には「粗粒玄武岩」の岩盤があり、これが巨大な貯水槽の役割を果たしている。このタンクにたまって溢れ出てくるのが、有東木の豊富な湧水なのである。玄武岩はアルカリ成分を多く含むことから、有東木の湧水はアルカリ性を帯びており、このアルカリ性の水がわさび栽培にも影響を与えるという大学教授の話もあるという。
岩と岩の間から水が湧き出ている。このような井戸頭が有東木の至る所にあり、井戸頭を拠点にわさび田が造成される
さらに、有東木の厳しい寒さが、この地のテロワールの要素を色濃く映し出す。伊豆に比べて冬の冷え込みが一段と厳しい有東木では、1月の厳冬期に苗を植える際、地面から20〜30cmの高さにビニールを張ってわさび田を保温するという作業が必要になる。
このような厳しい環境下で、わさびはじっくりと時間をかけて育つ。成長が遅いため生産性が悪いように思えるが、実はこれこそが「有東木ブランド」の付加価値として、わさびの味わいに直結している。時間をかけて細胞が成熟し、環境の厳しさに耐えることで、根茎には辛味と風味、そして奥深い甘味が凝縮されていくのである。
鼻を抜けるビビッドでシャープな辛味の後を追うふくよかな風味と甘味。有東木のわさびは、そのバランスが良い
かつて有東木は、良質な茶が取れる「本山茶」の産地としても有名であった。しかし、近年のお茶価格の低迷や生産者の高齢化により、放棄される茶畑が増えている。その一方で、わさび栽培一本で勝負する農家が、この土地の価値を再定義し始めている。「栽培発祥の地」というブランドを発信し、今では有東木のわさびは唯一無二の存在として認知されるようになったのである。
有東木は高級茶として知られる本山茶の希少な産地。わさび田とともに斜面に茶畑が広がる景観が美しい
わさびづくりには「水の環境」が大切だが、それはその土地ごとの自然条件だけで決まるものでもない。実はその「水の環境」をいかに管理するかも、味を左右する決定的な要素となる。
後編では、土木構造物としての「畳石式わさび田」と、代々受け継がれてきたわさび農家の知恵を紐解きながら、わさびの美味しさに迫っていく。
後編(9月29日公開予定)に続く
(参考資料)
静岡水わさびの伝統栽培~発祥の地が伝える人とわさびの歴史~ [PDF]
※記事の情報は2026年9月25日時点のものです。
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【PROFILE】
わさびの門前(わさびのもんぜん)
静岡県静岡市葵区有東木地区で約400年続く、日本最古のわさび農家といわれる。30軒ほどのわさび農家がある有東木地区でも、唯一のわさびの専業農家。完全無農薬、かつ化学肥料を使わずに栽培される良質なわさびは、ミシュランの星付きの寿司店やレストランなど、味にこだわる多くの飲食店に卸している。
公式サイト https://wasabiya.net/
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