【連載】人生100年時代、「生き甲斐」を創る
2019.02.20
小田かなえ
公民館に生まれた小さな国際交流
少子高齢社会となった日本で、共同体の最小単位『家族』はどこへ向かうのか。「すべてのお年寄りに笑顔を」と願う60代の女性が、超高齢の母との生活を綴ります。
母60歳、つぎつぎと習い事をはじめる。
我が家には現在94歳の母がいる。親知らず以外の歯がすべて揃っていて、ステーキでもスルメでも堅焼き煎餅でも食べる母である。「80歳まで20本の歯を残そう」という8020運動を軽くクリアしているため、献立を考えるのがラクで良い。
この母は大正13年生まれの女としては珍しく、定年までフルタイムで働いていた。最初の職業は美容師。美容学校に通って免許を取り、2年ほど新橋の美容院で修業してから、東京のはずれに自分の店を開いたのだ。しかしわずか数年で閉店。腕が悪かったとか赤字だったとか、そういう問題ではない。
「お店をやってると旅行できないのよ」
......ワガママな理由である。
でも幸いなことに弟(私から見れば叔父)が34歳で工場経営を始めたため、そちらの事務に転職して60歳まで働き続けたのだ。
そして無事に定年を迎えた母は、退職と同時に習い事を始めた。英会話、書道、茶道、ヨガ......。
「お習字とお茶はわかる。ヨガも健康的だからいいね。だけど英会話を習ってどうするつもり?」
「うふふふ~、ナイショ」
不気味に笑う母には、もしかすると世界一周旅行あるいは海外移住など壮大な計画があったのかもしれないが、実はこの英語は海外ではなく身近な場所で役立つことになる。
英会話以外の習い事はすべて、隣家の奥さんとふたりで私たちの住む埼玉県某市の公民館の講座に申し込んだ。その人は母と違って一度も働いた経験のない専業主婦。経験もバックグラウンドも違う人とよく話が合うなぁと私は思ったけれど、オバちゃんというものは群れるのが得意なのだ。
ちょっと話は逸れるが、たとえば病院の待合室で、ときには電車の中で、自分の病気の症状や服用している薬の名前、あるいは嫁がいかに気が利かないか......等々を喋っている仲の良さそうなオバちゃんたちを見かける。
しかしあれは見ず知らずの他人同士というケースも多い。会計で名前を呼ばれたり、自分の降りる駅に着いたりすると、それまでの話をピタリとやめてスクッと立ち上がり、相手の顔もロクに見ないで「お先に~」とアッサリ別れる。ぜんぜん名残惜しそうではない。
私自身も電車内で見知らぬ女性に声をかけられ、着用していたワンピースをどこで買ったか、値段は幾らかを聞かれて、お返しに彼女の娘さんの結婚式の写真を見せてもらったことがある。
そんなとき私のアタマには太古の人類たちの暮らしが浮かぶのだ。男たちがマンモスを狩りに行っている間(マンモスじゃないかもしれないけれど)、女たちは協力し合って子どもを育てていた。年長の女たちがじゃれ合う子どもらを見守り、体力のある若い女は木の実や草を集めに出かけ、みんなでお喋りしながら料理して衣類を編む。なんて賑やかなんだろう!
だから女は同性に対してフレンドリー。知らない女同士でも目と目が合った途端にマシンガントークを始めるのは、おそらくDNAに刻み込まれた生きるための知恵に違いない。
「練り切りはビーンズでハンドメイド」
さて話を戻すと、母は60歳から80歳まで公民館に通い、そこでいろいろな友達を作ってきた。それがまた見事にバラバラな人たちで、母より20歳ぐらい若いアラフォーの韓国人女性、イスラム教徒のパキスタン男性と結婚して自らもムスリムになった50代のお母さん、生涯シングルを通した70代のピアノ教師、たくさんの孫に囲まれた80代のお婆ちゃんなどなど。
当時アラフォーの韓国人女性は友達の紹介で日本に嫁いできた。母と知り合った当時、彼女は日本に住み始めたばかりで、日本語はぜんぜん話せず、日本語および日本文化を勉強するために書道と茶道を習うことにしたらしい。
母の英会話は、主にその人と話すときに役立ったのだ。もちろんカタコトどころか単語を並べるだけなのだが、とつぜん体調を崩した彼女に「ストマックエイクなの?」と聞いたり、和菓子の練り切りを「マジパン?」と聞かれ、「マジパン、ノー。マジパンはアーモンドプードル。練り切りはビーンズでハンドメイドよ」と答えたり。何のことはない、ほとんど日本語なのだが、通じたのだからヨシとしよう。
この韓国人女性は私と10歳ぐらいしか違わないため、我が家に来る用事があると私にも話しかけてきた。日本語を絶賛練習中なのでチャンスがあれば話したいのだ。先日、久しぶりにスーパーで遭遇したら20年間の努力は確実に実っていて、「アンタはまぁ、どうしてお化粧しないの。こんなヨレヨレの服を着て、ずいぶんブサイクになっちゃったじゃないの。お母さんを見習って綺麗にしてなきゃダメだよ」と流暢な日本語で私を罵倒した。
ムスリムの奥さんは母に異文化を教えてくれた。日没後しか食事できないラマダン期間中、一日ずっと空腹に耐えたパキスタン国民が食べるメニューはとても美味しい。母はこの人のもとに足しげく通い、異国の料理を修得していった。なかでも母と私が好きなのはパコラという料理で、簡単に言うとヒヨコマメの粉で作った天ぷらなのだが、スパイスを効かせてほうれん草や春菊をカリッと揚げてあり、実にエキゾチックな風味である。
しかしながら、このムスリム家のご主人はちょっと気の毒だった。明らかに日本民族とは違う風貌のため、初対面の人に警戒されてしまうのだ。このご主人が、母が書道の展覧会に出した表装済みの作品をクルマで運んできてくれたときも、我が家の向かいに住む元植木職人のお爺ちゃんに見咎められた。怪しいガイジンに驚いたお爺ちゃんが「大丈夫か?」と言いながら杖を片手に道を渡ってくる。その杖が仕込み杖に見えたくらい、私にはお爺ちゃんの放つ警戒心が伝わってきた。しかし母がご主人をきちんと紹介したことで雑談に花が咲き、最後はお爺ちゃんが梅の剪定方法をムスリム家まで教えに行くという約束まで、その場で成立していた。
埼玉の小さな町の公民館に生まれた小さな国際交流。うちの母はそこで仲人役を果たしていた。なにも気負うことなく、自然体で。海外からやって来たばかりで、心細い思いもしていただろう人たちが日本の社会に溶け込むきっかけを、自分なりのやりかたでせっせと提供していた母を、私はえらいと思う。国際貢献に遅過ぎるということはないのだ。
※記事の情報は2019年2月20日時点のものです。
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【PROFILE】
小田かなえ(おだ・かなえ)
日本作家クラブ会員、コピーライター、大衆小説家。1957年生まれ、東京都出身・埼玉県在住。高校時代に遠縁の寺との縁談が持ち上がり、結婚を先延ばしにすべく仏教系の大学へ進学。在学中に嫁入り話が立ち消えたので、卒業後は某大手広告会社に勤務。25歳でフリーランスとなりバブルに乗るがすぐにバブル崩壊、それでもしぶとく公共広告、アパレル、美容、食品、オーディオ、観光等々のキャッチコピーやウェブマガジンまで節操なしに幅広く書き続け、娯楽小説にも手を染めながら、絶滅危惧種のフリーランスとして活動中。「隠し子さんと芸者衆―稲荷通り商店街の昭和―」ほか、ジャンルも形式も問わぬ雑多な書き物で皆様に“笑い”を提供しています。
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