【連載】人生100年時代、「生き甲斐」を創る
2020.06.02
小田かなえ
「大正生まれ女子」も熱中したグルメとレジャー
少子高齢社会となった日本で、共同体の最小単位『家族』はどこへ向かうのか。「すべてのお年寄りに笑顔を」と願う60代の女性が、超高齢の母との生活を綴ります。
戦前の丸の内OLは......
OLという言葉はBG(ビジネスガール)に代わる呼び名として1963年に女性週刊誌が公募し、読者投票で26000件以上の中から選ばれた造語である。
その後、大企業が集まった丸の内に勤務する女性社員、いわゆる「丸の内OL」は、さまざまな流行をいちはやく取り入れて人生を謳歌するカッコいい女性たちの代名詞となっていった。
21世紀に入って以降は使われる頻度が減ったものの、今でもOLという単語はいろいろなところで見かける。
我が母は美容師になる前、まだBGと呼ばれていた時代に丸の内で働いていた。しかし当時の女性たちは職業を聞かれると「○○会社に勤めています」と答えるのが普通で、自身のことをBGと称することはなかったようだ。
戦前の丸の内OLたちがどんな生活をしていたのか、昭和のバブル期のように流行の先端を行く人種だったのか否か、私は母に聞いてみた。
前回の主役であるタマコ先輩と西郷さん、トシローさん、その他たくさんの仲間は居たものの、なにしろお見合い結婚が主流だった時代である。未婚の女性はあまり遊びに行かなかったのではないか、デートはもちろん、男女が雑談することさえ憚られたのではないか?
しかし当時のOLも現代とさほど変わらなかったらしい。会社帰りにはタマコさんをはじめ、いろいろな女友達と食事に行く。
「へぇ、どこで食事したの? 」
「あの頃は丸の内にお店がなかったから、銀座まで行ったわね」
丸の内から銀座までなら、女の子たちが賑やかに喋りながらブラブラ歩いても15分。私の脳裏に若き日の母たちが浮かぶ。
「どんなものを食べたの? ハンバーグとかトンカツとか? 」
「そういうのは家でも食べられるから、もっぱら中華よ」
ああ、なるほど! 若い皆さんは知らないと思うが、中華風の合わせ調味料が発売されたのは1970年代後半。それ以前は中華の味を出そうとすると肉屋で分けてもらった鶏ガラを何時間もかけて煮出さなければならず、一般家庭ではほとんど作らなかったのだ。
「何を食べたの? ラーメン? 」
「ラーメンは家の近所にも美味しいお店があったから、鯉の丸揚げとかね」
鯉の丸揚げ! 私も大好物だが最近ご無沙汰だ。10年ほど前まで家から徒歩2分のところに本格中華料理店があり、だいたい月イチで食べていたのに閉店してしまった......残念!
そんな会社帰りの食事会には、たまに男性社員も参加したという。西郷さんたちだ。
「ふたりで行ったりはしないのよね? 」
「そんなことないわよ、恋人同士なら行くでしょ」
「タマコさんと西郷さん? 」
「あの人たちはタマコさんの片想いだから無理だったわね。アタシとトシローさんは食事に行ったけど」
ちょっと自慢げな母、95歳。トシローさんというのは私の父だ。
「食事だけじゃなく、戦争が始まる前はホテルのスケート場にもよく行ったのよ」
「ホテル? スケート場? 」
「永田町のほうのホテルよ。地下にスケート場があって、靴も借りられたわ」
念のため調べたら、たしかにそのホテルは存在していた。あの2・26事件の舞台となり、戦後は米軍に接収された山王ホテルである。
「アタシはけっこう上手だったのよ。スイスイと滑るのは気持ち良かった! 」
滑ると言えば......
「そうそう、滑るって言えば、タマコさんたちとはスキーにもよく行ったわねぇ」
「ええっ、お母さんスキーなんかできたっけ? 」
「それがね、下手なのに高いところまで登っちゃって、大変な目に遭ったことがあるの」
日本のスキー場にリフトが登場するのは1946年で、当初は米軍専用の施設として札幌スキー場に造られた。一般人が使えるようになったのは1952年なので、母が若い頃に「登っちゃった」という高いところは、カニ歩きで行かれる範囲。それでも初心者にとっては十分すぎるほど怖い。
無鉄砲に登った母は後悔しつつモタモタと滑り降りようとしたのだが、折り悪しく雪が降り出して視界が閉ざされ、タマコさんたちとはぐれてしまったそうだ。半泣きで途方に暮れていたとき、颯爽と助けに来てくれたのは同じ宿に泊まっていた青年。
「その人がアタシのスキー板を片手に抱えてね、自分の板の後ろにアタシを立たせて『しっかり僕につかまってなさい』って」
母たちが泊まったのは民宿だったため、宿泊客同士が親しくなる。先に降りたタマコさんたちが救助を要請してくれたのだ。
私自身も学生時代は民宿に泊まって相客と言葉を交わすことはあったけれど、幸いなことに命を助けてもらう羽目にはならなかった。私は母と違って用心深いのだ。
母は遠い目をして話し続ける。
「すごく上手な人でねぇ、アタシを乗せたまま凄いスピードで滑り降りるの。耳元で風がビュンビュン吹いてて寒かったけど、あんなに爽快な気分は初めてだった」
「どのくらいで降りられたの? 」
「あっという間に降りちゃった。名前も知らないし、顔も覚えてない人。二度と会わなかったけど、いい思い出だわぁ」
「良かったね、その人がいなかったら朝まで戻って来られなかったよね」
戻れないと言えば......
「そうそう、戻れないって言えば、子どもの頃に家族で海へ行って流されたことがあったのよ! 怖かったわ! 」
「どこの海? 」
「大磯よ。姉さんとアタシが浮き輪にしがみついたたまま沖のほうへ流されるのを見て、お父さん(私の祖父)が『あの子たちはもうダメだ、助からない』って、砂浜に倒れて大泣きしたんだって」
大磯は離岸流が発生しやすい海岸で、今は遊泳禁止になっているところもあるはずだ。
離岸流にさらわれた伯母と母が誰に助けられたのか、本人たちはわからないし、もう知っている人は誰もいない。
このとき一緒に流された母の姉(私から見れば伯母)は現在97歳。伯母の子ども4人と孫、曽孫たちが集まって、毎年盛大な誕生日パーティーを開いている。
もし大磯の海で救助されなかったら、従兄姉たちも私も生まれていなかった。助けてくれた大磯のどなたかは、私にとっても恩人だ。
話は逸れるが、国鉄(現JR)の鉄道網は大正から昭和初期にかけて大きく発達した。昭和5年には超特急『燕』が運行を開始。昭和6年には東洋一と言われた清水トンネル、昭和9年には難工事で有名な丹那トンネルも開通する。
また同じ頃『国立公園法』が誕生し、観光地が整備されていった。
それに影響され、母たち庶民の間でも1泊か2泊の気軽な旅行がブームとなったのだ。
10年ほど前まで、母の兄弟姉妹たちは昔の思い出をたどって、かつて家族で出かけたところを再訪していた。江ノ島、箱根、伊香保、房総、塩原、宇奈月、能登、松島、などなど。場所によって記憶通りだったり、すっかり変わってしまって何処がどこだかわからなかったりする。それもまた楽しいと言っていた。
そういえば、とある観光地のトイレが昔と同じように臭くて、母は子どもの頃やったようにハンカチを鼻の穴に詰めて入ったそうだ。そのとき後ろに並んでいた人に話しかけられ、ハンカチを牛の鼻輪のように詰めたまま振り向いたら、相手がお腹を抱えて大笑いしたというのは余談である......。
楽しい記憶を反芻して味わう幸せ
こうして昔の話を聞いてみれば、会社帰りの女子会やデート、スケートやスキー旅行、家族旅行など、戦前の娯楽は現代とほとんど変わらない。
「社員旅行なんかもあったの? 」
「もちろんよ。熱海とか日光とか近いところばかりだけど、昔は今と違って全員参加だったから賑やかで面白かったわ」
「家族旅行は別として、旅行するときはいつもタマコさんと一緒? 」
「そんなことないわよ、いろんな友達と行ってた。旅行でも食事でも、友達はみんなゴチャ混ぜよ」
「どんな人たち? 」
「タマコさんの同期の人でしょ、もちろんアタシの同期の子もいたし、それから幼馴染みのキヨコちゃん、学校が同じだったコウノさんも隣りのビルに勤めてたからよく誘ったし、あとは姉さん同伴のことも多かったわよ」
「ずいぶん大人数じゃない! 」
「そうよ、そういえば大勢で尾瀬に行ったわねぇ。尾瀬沼は良かったわ。私たちしか居なくて、霧の中を歩いてると、なんだかこの世じゃないみたいで......」
再び母は遠い目をして微笑む。
自分の親しい友達同士を紹介して交友関係の輪を広げる性格、これはどうやら私にも遺伝しているようだ。
「カナエのまわりにはスクランブル交差点みたいにオバちゃんたちが集まってる」
つい最近、親友が口にした言葉である。
人生100年、老後は長い。30年後の私も、母のようにたくさんの友達と積み重ねた楽しい記憶を反芻できたら幸せだと思う。
※記事の情報は2020年6月2日時点のものです。
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【PROFILE】
小田かなえ(おだ・かなえ)
日本作家クラブ会員、コピーライター、大衆小説家。1957年生まれ、東京都出身・埼玉県在住。高校時代に遠縁の寺との縁談が持ち上がり、結婚を先延ばしにすべく仏教系の大学へ進学。在学中に嫁入り話が立ち消えたので、卒業後は某大手広告会社に勤務。25歳でフリーランスとなりバブルに乗るがすぐにバブル崩壊、それでもしぶとく公共広告、アパレル、美容、食品、オーディオ、観光等々のキャッチコピーやウェブマガジンまで節操なしに幅広く書き続け、娯楽小説にも手を染めながら、絶滅危惧種のフリーランスとして活動中。「隠し子さんと芸者衆―稲荷通り商店街の昭和―」ほか、ジャンルも形式も問わぬ雑多な書き物で皆様に“笑い”を提供しています。
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