1杯のコーヒーから始まる創造|クリエイターたちのカフェ(パリ、ウィーン、ニューヨーク)

DEC 29, 2020

旅行&音楽ライター:前原利行 1杯のコーヒーから始まる創造|クリエイターたちのカフェ(パリ、ウィーン、ニューヨーク)

DEC 29, 2020

旅行&音楽ライター:前原利行 1杯のコーヒーから始まる創造|クリエイターたちのカフェ(パリ、ウィーン、ニューヨーク) "創造力"とは、自分自身のルーティーンから抜け出すことから生まれる。コンフォートゾーンを出て、不自由だらけの場所に行くことで自らの環境を強制的に変えられるのが旅行の醍醐味です。異国にいるという緊張の中で受けた新鮮な体験は、きっとあなたに大きな刺激を与え、自分の中で眠っていた何かが引き出されていくのが感じられるでしょう。この連載では、そんな創造力を刺激するための"ここではないどこか"への旅を紹介していきます。

※本文の記事で書かれている内容や画像は2000~2018年の紀行をもとにしたものです。

嗜好品だが、私たちの生活になくてはならない飲み物がコーヒーやお茶だ。お酒が気分をリラックスさせる効果があるのに対し、カフェインを含むコーヒーやお茶は眠気を飛ばし、多少の興奮を催して頭をスッキリとさせてくれる。「創造」や「革新」を生むには、まさしく助けになる飲み物だろう。歴史の中では、コーヒーを提供するカフェに多くの知識人が集まり、互いに刺激を与え合った。今回はコーヒー、そしてカフェの歴史と、そこに集ったクリエイターたちの話だ。




コーヒーの起源

コーヒーの豆。緑から次第に赤く熟していくと収穫だコーヒーの豆。緑から次第に赤く熟していくと収穫だ


紀元前から飲まれていたというお茶に比べると、コーヒーの歴史はそれほど古くはない。伝承では9世紀のエチオピアでヤギ飼いの少年カルディ(あのコーヒー販売チェーンの名前だ)が、木の実を食べた後に興奮しているヤギを発見。それを修道士に報告したところ、赤い木の実が原因だと分かり、やがて修道院の間で「お勤めで眠くならない薬」として広まったとされている。


もっともこれは後から作られた話かもしれない。というのも6世紀にはすでに、エチオピアの向かいのイエメンではコーヒーが飲まれていたようなのだ。その後、コーヒーは15世紀にイスラムの聖地メッカで流行。16世紀にはそのメッカが地中海の3/4を支配するオスマン帝国の版図に入ったため、巡礼者たちによって一気に外の世界へと広まっていく。


コーヒーの名前はアラビア語の「カフア」からトルコ語の「カフヴェ」になり、「煮出して飲む」というトルココーヒーの飲み方が確立。16世紀には、世界で初めてコーヒーを提供する店「カフヴェハーネ(コーヒーの家)」がイスタンブールで開かれたという。




カフェの誕生

カフェの誕生


ヨーロッパにカフェが誕生したのは17世紀半ば。1650年にはイギリス最初のコーヒーハウスがオックスフォードにオープンして成功を収め、1686年にはウィーンとパリでもカフェがオープンする。国によって呼び名は異なるが、ここではまとめて「カフェ」と呼ぶことにする。


知っての通りコーヒーには依存性があり、1730年代にはバッハがコーヒー依存症を題材にした「コーヒーカンタータ(おしゃべりはやめて、お静かに)」を作曲している。カフェはどの国でも当時の知識人が集まり、政治談義もするような社交の場所だった。そのためイギリスではそれを不穏として国王が「コーヒーハウス閉鎖宣言」を出そうとしたこともある。また、1777年にはプロイセン王がコーヒー禁止令を出したが、これは政治・社会的なものではなく、コーヒー輸入による赤字対策のために「ビール推奨令」と合わせてのものだった。


ジャワ島のコーヒープランテーション。コーヒーは昼夜の寒暖差と湿度がある高地で栽培されることが多いジャワ島のコーヒープランテーション。コーヒーは昼夜の寒暖差と湿度がある高地で栽培されることが多い


初期のカフェではコーヒーは非常に高価なものだった。というのもアラビア半島で産出されるコーヒー豆はそれほど多くはなかったからだ。しかし17世紀にオランダがスリランカとジャワで大規模なコーヒープランテーションを始め、安価なコーヒーがヨーロッパに入ってくるようになり、カフェは大衆的なものになっていった。




パリとカフェ

フランス革命の頃には、すでに700軒ほどのカフェがあったというパリ。18世紀には多くの思想家や革命家、そして芸術家がカフェに集まり、熱い議論を闘わせた。その中から多くの「創造」や「革新」が生まれたことだろう。19世紀半ばになると、路上にイスやテーブルを置く現在の「カフェテラス形式」が始まり、今のパリにつながる街の風景が生み出された。コーヒーの入れ方もサイフォン式やドリップ式が考案される。


19世紀末から第1次世界大戦までにパリの文化や芸術は一つのピークを迎えた。第2次産業革命により都市文化が急激に発達した時代だ。その「ベル・エポックの時代」を代表するのが印象派絵画だ。画家たちが集まったのがモンマルトルの丘のふもと、現在のクリシー通りにあった「カフェ・ゲルボワ」だ。


1863年の「落選展」で「草上の昼食」を発表して物議を醸したマネは、その頃からカフェ・ゲルボワに通い出していた。まもなくクロード・モネ、ルノワール、シスレー、ドガなどが集って、このカフェで雑談を交わすようになり、彼らはやがて「印象派」と呼ばれるようになる。このカフェには、これから新しいものを生み出そうという彼らの「創造と革新」のエネルギーが満ちあふれていたに違いない。


モンマルトルにも住んでいたゴッホだが、陽光を求めて南仏へと旅立ち自分の描画の手法を見出す。代表作「夜のカフェテラス」(1888)が描かれたアルルのカフェモンマルトルにも住んでいたゴッホだが、陽光を求めて南仏へと旅立ち自分の描画の手法を見出す。代表作「夜のカフェテラス」(1888)が描かれたアルルのカフェ


第1次世界大戦が終わり、1920年代に入ると再びパリは活気を呈し、唯一の超大国になったアメリカからは多くの芸術家やその卵たちがパリを目指した。"パリのアメリカ人"が現地の文化人たちと交流する場所は、パトロンが開くプライベートな「サロン」のほかにカフェがあった。以前にも紹介したヘミングウェイは、1922年に特派員としてパリに渡ってサロンやカフェに出入りし、すでに流行作家として名を上げていたフィッツジェラルドとも会っている。


モンパルナスの「ル・セレクト」にはヘミングウェイやピカソ、ジャン・コクトー、マティスが、「ラ・ロトンド」にはモディリアーニ、シャガール、ユトリロらの画家のほか、やはりピカソやコクトーらが出入りした。そしてサン・ジェルマンの「カフェ・ドゥ・マゴ」にはヴェルレーヌ、サルトル、ボーヴォワール、ピカソなどシュルレアリストや実存主義者たちが、近くの「カフェ・ド・フロール」にもやはりサルトルとボーヴォワール、カミュ、アンドレ・ブルトン、アポリネールらが集った。この時代、社会の変化に伴い、哲学や思想もまた新しいものが生み出されていたのだ。


サルトルとボーヴォワールが常連だったサン・ジェルマンのカフェ・ドゥ・マゴサルトルとボーヴォワールが常連だったサン・ジェルマンのカフェ・ドゥ・マゴ


パリのカフェテラスに座って街を眺めていると、自分もパリと一体化したような気になってくる。パリのカフェが"よそ者"に対してオープンなコスモポリタン的な空気を生んだのも、街に向かって開かれたカフェテラスの構造が関係しているのかもしれない。外国人や他の町から来た者にとっても、カフェはパリが自分を受け入れてくれていると安心させてくれる場所なのだ。




ウィーンとブダペストのカフェ

19世紀末に「世紀末芸術」が流行したウィーンなどのオーストリア=ハンガリー帝国の都市でも、カフェは知識人が集まる場所だった。ただし革命の都パリと皇帝の都ウィーンとではカフェの様相も異なる。ウィーンでは豪華なシャンデリアや宮殿風のカフェが流行り、皇室御用達のスイーツが提供され、王侯貴族や音楽家、名のある芸術家たちが通ったのだ。


1876年にオープンした「カフェ・ツェントラル」は「カフェ文士」として知られるアルテンベルクが起きている時間の大半を過ごしたというカフェだ。ここには作家のツヴァイクや批評家のエゴン・フリーデルだけでなく、ヒトラーやトロッキーも訪れた。もっとも文化人や芸術家の多くは、ナチスとそりが合わず(アーティストや文化人にはユダヤ人も多かった)、亡命するか死ぬことになり、第2次世界大戦後にウィーンにカフェ文化が戻ることはなかった。保守的な空気からは、創造や革新は生まれないのだ。


オーストリア=ハンガリー帝国のもう1つの都ブダペストにも、19世紀末創業というカフェがいくつかある。その1つの「ニューヨーク・カフェ」を訪れた。名前とは裏腹に、内装はヨーロッパの宮殿風のゴージャスなもので、帝国が最も華やいでいた時代を象徴するような豪華な内装に目を奪われた。アーティストたちが集まるというより、ここは上流階級の社交場だったのだろう。


「世界一美しいカフェ」とも言われるブダペストのニューヨーク・カフェ「世界一美しいカフェ」とも言われるブダペストのニューヨーク・カフェ




アメリカのカフェ

ヨーロッパと異なり、アメリカではあまりカフェ文化は広まらなかった。カフェ文化はあくまで都市の文化。国土が広いアメリカでは簡単に誰かの家でホームパーティーができるから、ニューヨークなどの大都市を除けば行き場のない若いクリエイターがカフェに集まることは少なかったのもしれない。


アメリカでヨーロッパのカフェに当たるものがあるとすれば「ダイナー」だろうか。1970年代にファストフードチェーンに駆逐されるまでは、アメリカでは気軽に食事とコーヒーが楽しめる場所だった。エドワード・ホッパーが1942年に描いた「ナイトホークス」は、深夜営業するダイナーを通して都会の孤独のイメージを伝えた。


ダイナーは孤独な場所であると同時に「溜まり場」でもある。アメリカ南部の都市メンフィスで、1919年創業という「アーケードレストラン」を訪れた。このダイナーは1950年代に改装され、当時としては最先端の若者が集まる場所になった。その中に若き日のエルヴィス・プレスリーがいた。常連の彼がいつも座っていた窓側の奥の席は、今は「プレスリー・ブース」になっている。


メンフィスにある「アーケードレストラン」。人気の「プレスリー・ブース」はなかなか座れないメンフィスにある「アーケードレストラン」。人気の「プレスリー・ブース」はなかなか座れない


アメリカでヨーロッパのカフェ文化を感じさせるところがあるとしたら、ニューヨークだろうか。1960年代前半、マンハッタンのグリニッチ・ビレッジでは若者中心の新しい文化が生まれていた。ニューヨーク大学があるこの地区にはコーヒー1杯で粘れるコーヒーハウスがあり、いくつかの場所ではフォークシンガーの弾き語りやスタンダップコメディなどが客寄せで行われていた。コーエン兄弟監督の映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」は、その当時の雰囲気をよく伝えている。


そうしたコーヒーハウスからデビューしたのが、ボブ・ディランだ。彼がごく初期に歌っていたという「カフェ・ホワッ(CAFE WHA?)」はまだあるが、今ではライブハウスといった趣きなので、ここでは同じ通りにある「カフェ・レッジオ」を紹介したい。1927年創業という老舗で、アメリカで初めてカプチーノを紹介した店でもある。若きディランはここに通って詩を書いていたという。緑の外観が目印で、古い内装はそのままなので、「インサイド・ルーウィン・デイビス 名もなき男の歌」のほかにも、「ゴッドファーザーPART 2」、「セルピコ」、「グリニッチ・ビレッジの青春」など、映画のロケにもよく使われている。私がくつろいでいた時も、隣の席では2人の青年が楽譜を広げて編曲の打ち合わせをしており、クリエイティヴな空気は今もこのカフェには漂っていた。思わず「自分もこんなところで暮らしていたら」と、ニューヨークに移住したくなった。


グリニッジ・ビレッジにある「カフェ・レッジオ」。有名・無名を問わず多くのアーティストが訪れたグリニッジ・ビレッジにあるカフェ・レッジオ。有名・無名を問わず多くのアーティストが訪れた


1杯のコーヒーを飲みながら人と意見を交わす、あるいは1杯のコーヒーからクリエイティヴなインスピレーションが生まれる。そんな場所としてのカフェは今は時代遅れで、その場はすでにインターネットに移行してしまったのかもしれない。しかしその「場にある力」は、決して侮れない。人々のざわめき、街の空気、クリエイティヴな相手から引き出される自分のクリエイティヴ。そんな力を僕はまだ信じている。

  • プロフィール画像 旅行&音楽ライター:前原利行

    【PROFILE】

    前原利行(まえはら・としゆき)
    海外旅行ライター&編集の仕事以外にも、映画や音楽、アート、歴史など海外カルチャー全般に興味を持ち、執筆している。世界史オタク。最近では海外での音楽フェスと美術館巡りにはまっている。

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